―――全国の大学生が参加するこの建築学生ワークショップは、毎年、場所を移しながら開催してきました。歴史の特性をはっきりと持つ開催地と、周辺の生活文化を合わせて調査することにより、観光として訪れるだけでは知ることのできない街や地域との関わりや、建築を保全していく造り方の技にも触れ、制作を含めた地域滞在をします。神聖な場所の静粛な空間からコンテクストを見出し、現場で建築の解き方を探るきっかけを経験したいと考えております。出雲大社は、大国主大神さまをお祀りしている神社。古代より現代も多くの人々がお参りに訪れる「縁結びの神様」でもあります。60年に一度の式年遷宮で建築をつくり変え技術を継承することでもこの場所の特性を用いるため、大きく分けて「歴史」「場所性(地形)」「現代の問題」の観点から求めるものを探り、ワークショップ開催の目標となるお言葉や意義について、この座談会でお伺いします。次世代を担うであろう、建築や芸術、デザインを学ぶ学生たちが出雲大社に身を置き、実学として場の空気や伝統構法を体験しながら学び、貴重な経験を通じて得た体感を、2019年夏、小さな建築空間で表現したいと思っています。古代より現代に受け継がれてきた大社で、空間性へのテーマや実現へのコンセプトのヒントとなる話題を、どうか合わせてお聞かせください。
本日は、開催地として多大なご尽力をくださいます出雲大社様にて、参加学生にむけて導きをくださる、千家和比古権宮司様、そしてこの建築ワークショップを初年度から見守り続けてくださる、東京大学の腰原先生、佐藤先生、そしてオーガナイザーの役割を担い続けてくださいます、建築家の平沼先生と共に、「平成の大遷宮」満了の年に合わせた出雲開催についてお聞きします。
平沼:出雲の国は中国や朝鮮半島に近く、日本で最も早く高度な文明を発達させた地域だと聞き及んでおります。そして出雲大社の門前町として大社と共に歩んでこられた街。その大社は、大国主大神さまをお祀りしている神社として「むすび」の御霊力を司られ、古代より現代まで多くの人々がお参りに訪れる「縁結びの神様」と仰がれています。また本年3月まで行われている平成の大遷宮を機に、日本はもとより世界から注目をされています。まずは、この地が現代にまで続く聖地と言われる神聖な場所となり、現代にも繋いでこられた思想の背景と、この地をお守りし暮らす人たちの生活文化と、自然環境はどのようなものだったのでしょうか。
千家:近接する出雲大社の摂社の命主神社境内では約2,000年前頃の磐座祭祀関係遺跡が発見されており、境内及び周縁域はその頃から聖地的認知がなされてきたようです。その後そうした文化がどのように展開したのか、時系列物証的に追うのは難しい状況です。現在の境内域では4世紀代の祭祀関係遺物が確認されていますので、現時点の物証からは変遷過程の問題はありますが、この頃から現在の出雲大社に繋がることになるでしょう。聖地という舞台について古社の環境空間を見ると、一つの類型的様相が看取できます。「水(川)」との関係です。この境内地の後背には、中央に祭祀的カンナビ型の岩山の八雲山があり、その左右に鶴山、亀山という山丘が控えています。八雲山両側の谷筋からそれぞれに川が流れ出て、現在は境内を画す垣の東西両側外に沿って人工造成された流路によって流れています。近世前期以来のことです。平成12年に境内で往昔の高層の御本殿の巨大柱が検出された時、古い河道も確認され、遺物から少なくとも7~8世紀代には機能していたことがわかりました。つまり、古代に二つの川は谷筋の方向軸のままに境内中央に向って両方から直進して、八足門前付近でY字状に合流していたことが想定されます。こうした川が合流している処を「河合(川合)」と言います。Y字状に河合を形成して一筋となって南に流れていた状況が、古い時代の境内の環境空間だったことが分かってきました。古代人は河合を現代で言うパワースポットとみていたようです。川というのは古代の伝承世界では神様の通り道、或いは目には見えないエネルギーの通り道、それが合体し増幅される環境に神祭りの場を設けたと想定されます。典型例が平安京の北東隅にある下賀茂です。賀茂川と高野川が合流して鴨川と名前を変えて一筋に流れますが、Y字状の河合の上側には、文字通りの河合神社が鎮座、続いて世界遺産の「糺の森」があり下鴨神社が鎮座です。糺の森の「糺」は「たたす」で「立ち現われる」という意味です。「山城国風土記逸文」の中に下鴨神社に関する丹塗矢伝承があって川を神様の通路と理解していたことが知られます。川を通る目には見えないエネルギーが合わさって「立ち現われてくる森」だから糺の森という名付けと理解されます。出雲大社で位置的に糺の森に相当するのが背後の祭祀性カンナビ型の八雲山です。原初的に神の座として祭祀対象だった可能性もあります。伊勢神宮も川が合流する環境地、また今も三輪山を祭祀対象として本殿建物を造らない大神神社も同じ。室町時代の絵図によると神体山の三輪山を中心対象としてY字状の河合形成の神祭景観が見えます。古代人が神祭りの場を設け聖地化する環境空間には、単なる便宜主義ではない心意性を指摘できます。
腰原:対象は川で、山や木ではないのですか?
千家:本源的祭祀対象はY字状の流路の上側に存在する山・森、そうした山・森を画するように流れる川・水の重要性を聖地空間設定に関わって注視したいのです。人間が生きる営みに必須の良水をもたらすのは山、森です。その水により人間の生の営みは歴史的展開を繰り返しています。古代の祭祀遺跡に水に関わるものが非常に多いのも理由のないことではありません。
平沼:現在もその古代人たちが守ってきた水の域がそのまま手が加えられることなく、保全をされているということですね。この地の地形についても教えてください。参拝にきて鳥居をくぐると、この地にしかない下り参道が気になります。やはり自然環境がそのまま利用されてきたということなのでしょうか。
千家:境内の正面にあたる南側は自然砂丘ですが、そこからの進入に際して下り参道になります。
腰原:あの辺は一切、人的に加工したのでは無くて、自然の地形の中に建てられているということですね。
千家:参道の入り口になりますが、境内の正面南端を遮蔽するように砂丘が伸びています。それによって境内は「籠り」の空間を生成しています。
腰原:その自然の起伏の中で、最後はここにたどり着くという仕組みになっているんですね。
佐藤:川が河合で出会って、海に流れていきますが、海も何かの重要な要素を持つのでしょうか。海岸が近いので何か関係があったかもしれないと思ったのです。
千家:今の正面門前の神門通りという道は、大正元年に開設された大社駅からの参詣道として敷設された新しいものです。それ以前は、山沿いの道と、海沿いからの道が基本です。
腰原:港から海沿いに戻ってくる道と両方が参道だったんですね。そうするとやはり山と海とこの場所は何か関係がある気がしますね。
平沼:うんうん。参加学生たちがこの地形を歩き、読み解くとおもしろいですね。そして古代人が造られ継がれてきた大社は、街を中心に広がってきたのでしょうか。それとも人々の生活がすでにあって、その中に大社が造られたのでしょうか。
千家:古代的には、集落があってその只中に祭祀場を設置ということではなく、自然と一体化する何かがあると観想される場を聖地空間として選地したと思います。出雲大社で言えば、弥生時代には日常生活の場、集落は低湿地を挟んだ南側の対岸に広がっている別の砂丘の方に展開していたようで埋葬の場もそちらです。大雑把に括れば弥生時代以来、境内側域は聖地空間として意識されていったと思われます。
腰原:逆にその普通の世界と縁を切ると言うか、聖域を作ろうという意識があったということでしょうか。
千家:祭祀的な場を日常性から画する意識はあったと思います。
佐藤:今年、境内で開催させていただくワークショップに際して、学生たちが構築物を造る時にコンセプトや制作のプロセスのきっかけとなるキーワードを見つけようとするのですが、例えば、川の流れ方や地形といった水田との関係も含んで、環境の中から生まれた独特の形はありますか。
千家:自然ではなく歴史的環境からすれば、昨年は伊勢神宮で建築ワークショップを開催ですが、伊勢神宮の神明造は平面長方形の平入りで水平方向の広がりが視覚的に看取される造形、出雲大社の大社造は平面方形の妻入りで御本殿本体は垂直方向の伸びが視覚的に看取される造形と言えます。この両建築の対照的相貌は、後付けかもしれませんが、伝承世界とリンクしているようにも思われます。出雲大社と伊勢神宮との御祭神関係の神話伝承世界では国譲りと言われる伝承があります。実際には国譲りと神譲りがセットで、大国主大神からは国譲りですが、大国主大神は天上の神々から神譲りをされる立場です。国の事を譲る替わりに神の事を譲られるという相互委譲関係です。そこで、国の事、つまり地上世界の行政統治権を譲られた側の天的世界を故郷とする神々の中心格の伊勢神宮の建物造形は、版図を広げるように横に広がる。それに対して、神の事を譲られた側の出雲大社の建物は、伊勢的な天的世界と自らの地的世界を繋ぐ造形の建物になっています。そういう対照的な造形が起源伝承と絡め解釈できます。『日本書紀』の本文ではなく一書に、国譲り・神譲り伝承が詳述されていますが、そこに出雲大社本殿の建物構造について述べています。ここで指摘したいのは三つの橋の整備です。浮橋、高橋、打橋。浮橋は下流の淀みに造るような桟橋状の施設。今で言えば階段下の浜床。海との繋がりを意識したもので実態的に御本殿には水平方向の属性もあります。高橋は昇降の階段。問題は「打橋」です。『万葉集』にありますが、水流に勢いのある上流に構築する頑丈な橋のこと。これを「天安河」に備えるとあります。天安河とは天的世界と地的世界の境界の川。そこに橋を架けるとは天~地の世界を繋ぐ往来機能の通路としての橋を意味します。これは御本殿内の最大径の中心柱である心御柱(岩根御柱)に相当します。雲を描いた天井を貫く唯一の柱です。神の事を譲られた側は天地を繋ぐ高層造形の建物に、国の事を譲られた側は地上を這う低層造形の建物にという伊勢と出雲の建築様式、造形の違いが伝承世界から意味的に見えてきます。
平沼:すごく分かりやすかったです(笑)。そうすると、神宮の式年遷宮と大社の大遷宮とは全く違うものですか。
千家:遷宮とは祭祀起源伝承の再現によって理想の初発―始まりの活気に立ち返るという意味を内在すると理解していますが、その点では同じです。しかし、その起源伝承の内実が違います。伊勢神宮の起源伝承は、本来的祭祀地である大和から伊勢への遍歴による祭祀起源伝承です。伊勢神宮の問題は、建物構造的には全く機能しない床下で留まる心御柱の存在性です。現在、心御柱は神殿建物が出来上がった後の最終段階での建立です。これは後世の変容で、古代の『皇大神宮儀式帳』では全く違います。最初に全体の御用材の伐り出しのお祭りを対象の山の口で行います。これは今も同じです。そして後日の夜、心御柱だけの伐り出しのお祭りをその対象木の前で行います。注目すべきはその後の夜、神殿建設予定地で草刈、心御柱の穴掘、鎮め物の埋納という地鎮のお祭りをし、同夜続いてそこに心御柱を建てることです。伊勢神宮の遷宮意味の核心は、本来、心御柱を建ててから神殿建物を造営し始めることだと私は考えます。伊勢神宮で夜に行う祭りは、心御柱に関わる時、建築後の遷座の時です。なぜ夜か、夜は神に関わる時間帯だからです。地鎮のお祭りは、「この土地を使用させていただきます」ということですが、この心御柱の建築構造上に無関係の実態、神殿造営に先立っての建立から想起するのが古代伝承で知られる神による土地占め伝承です。そこでは杖状のものを地に挿す行為があります。土地占めの象徴的な印で、土地の霊、地霊に対する儀礼行為です。民俗事例でも一夜の野宿のための土地利用―借用で地霊に対するシバサシ(柴刺し)という習俗があり、驚くことに現代でも相似例があります。岐阜県の調査事例です。あるお爺さんが家を改築するために一度解体をします。一般的にはすぐに地鎮祭をして工事に入りますが、そのお爺さんは解体後、土地を野ざらしにして雑草が生えてくるのを待ちます。土地とは、本来的には土地の神様のものであると。そこで改築となれば、土地の神様に一旦お返しをしなければいけない。雑草が生えてきたことがお返しした状態で、そこで草刈りをし地鎮祭をして改めて地霊から借り受けるのだそうです。こうした一連の事象の心意は、伊勢神宮の遍歴の起源伝承から心御柱、遷宮を考える時に極めて重要な示唆を与えます。出雲大社の場合、同様に起原伝承からすれば、一つの意味として、天的世界と地的世界を結ぶという相互の補完意識から、建物構造的には両世界の繋ぎの象徴的表象である天安河に架ける打橋―心御柱(岩根御柱)の架け替えの意味を持っていると思っています。
腰原:お伊勢さんのように交互に土地を返して借り受けて、ということではなく、出雲の場合はその場所で上と繋がり続けていないといけないということですか。
千家:日本列島に生き営む人々の特性である相対性の心意相の中に、伊勢も出雲もあるのだと思います。天的世界の神々と地的世界の神々は対立ではなく、二つのコミュニティーが補完関係を基軸として相対し繋がって、全体としての神々のコミュニティーを形成するという構造的理解の心意相です。夫婦・家族世界と相似です。それが日本の神々世界の構造であり、その表徴核心が往来のための打橋と理解しています。そこに、地的世界の中心格の出雲大社の存在性の一端を看取できます。
腰原:それは9本柱の2間ということにも現れているのでしょうか?普通こういったところでは3間にして、真ん中をつくろうとします。ここは2間なので非対称で、入り口も神様も非対称なところで、真ん中ではないですよね。そういう真ん中とか非対称という話は、先ほどの相対の話に繋がる気がしています。建物が3本×3本の9本の柱であって4つの空間に相当する部分の右奥を神様が使われていることの特異性という意識はありますか。対称でないことを目指しているのかなと思っているのですが。
千家:聖なるものに対し、正面直進を避けることが一つあると思います。祭祀的建物跡と思われる考古学上の遺構の場合、囲む柵・垣の入り口の左右両側を互い違いにずらし重ねて目隠し状態にし、屈曲進入するように設えられている例がよく知られています。この境内でも、賽路が真っ直ぐのように見えても斜めとか、御本殿に向って正面真っ直ぐな通路というのはありません。
平沼:ここにいる僕たちが大社への建築愛を持ちすぎて、延々お聞きしていたい気持ちになりますが、学生主体のワークショップ開催の座談会です(笑)。 最後に、出雲にやってきて頑張ろうとする学生に向けて、千家権宮司様から励みとなるお言葉をいただけませんでしょうか。
千家:御本殿を仰ぎ見ていつも想うのは、後姿が想像力を掻き立てることです。正面姿はこれがそうだという明瞭な気持ちになる訳ですが、後姿にはなかなか観えない、分からない不思議さがあります。見る人をして、そういう想像力を掻き立てる後姿的な造形をと期待しています。
一同:貴重なお話をくださり、本日は誠にありがとうございました。
(平成31年1月27 日 出雲大社・社務所にて)
―――大変貴重なお話をお聞かせいただき、本日はどうもありがとうございました。この対談を通じて、このワークショップが参加学生にとって、とても貴重で意義深いものと確信いたしました。そして将来、この場所で開催した意義につながっていくような、提案作品を募りたいと思います。
聞き手:原之園健作(AAF│建築学生ワークショップ運営責任者) |