3/6 公開プレゼンテーション
- 概要
- 提案作品講評会・
実施制作打合せ
- エスキース
- 現地説明会・調査
- 記念講演会
- アドバイザー会議
建築学生ワークショップ
明治神宮2021
- 開催の経緯
- 目的
- テーマ
- スケジュール
- 参加者募集
今年度の募集は締切りました
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4/13(火) アドバイザー会議 |
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全国から応募し選出される参加学生の決定に先立ち、建築や芸術、環境やデザインを学ぶ学生(学部生・院生)らの提案・制作の指導・補助、材料提供・手配、実施におけるアドバイザー(建築技術者)の皆様に実施の交流を促すため昨年より設けましたこの集まりは、昨年(東大寺2020開催)、新型コロナによる影響により、全国へ発令された緊急事態宣言のため実施できず、本年の開催より初めて実施しました。 |
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アドバイザー会議の様子 |
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明治神宮禰宜・水谷様よりミニレクチュア | 明治神宮権禰宜・小野様よりご挨拶 |
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明治神宮禰宜・水谷様による、境内(計画地)のご説明 |
明治神宮禰宜・水谷様による、境内(計画地)のご案内 |
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集合写真 |
アドバイザー会議の様子 |
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講評者・運営学生代表 正式参拝 |
明治神宮宮司・九條様、権宮司・網谷様と講評者・運営学生代表 |
座 談 会 | “今、建築の、原初の、聖地から” 水谷敦憲 (明治神宮|禰宜 管理部部長)✕廣瀬浩保(明治神宮|禰宜 宝物管理部部長) |
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―――全国の大学生が参加するこの建築学生ワークショップは、毎年、場所を移しながら開催してきました。歴史と場所の特性をはっきりと持つ開催地と、周辺の生活文化を合わせて調査することにより、観光として訪れるだけでは知りえない、街や地域との関わりや建築を保全していく造り方の技にも触れ、制作を含めた実学としての地域滞在を叶えます。神聖な場所の静粛な空間からコンテクストを見出し、現場で建築の解き方をさぐるきっかけを経験していきます。わが国の正月三が日の初詣では、300万人を超す第1位の参拝者数からも、世界を代表する聖地であるといえる明治神宮は、22万坪(約73ヘクタール)に及ぶ広大な神域と森に囲まれています。内苑と外苑に分かれたこの森は、太古の原生林と見まがう人工の森として存在し、東京で絶滅したはずの生物が数多く生息する場所です。また、造営には全国から述べ11万人もの青年が勤労奉仕として参加し、鎮座祭は1920年(大正9年)11月1日に行われ、令和2年にちょうど百年を迎えます。境内にある宝物殿13棟が重要文化財である近現代における主要都市のまちづくりで最も貴重となる「聖地」。この清らかな場に身を置き、かつ歴史環境を現代にも残す貴重な環境の中で、全国から集まる建築学生らが伝統的な構法に触れ、この場に位置づけた建築の解釈を生み出したいと考えています。つまりこの場所の特性を用いるため、「歴史」「場所性(地形)」「現代の問題」の3つの観点から提案に求めるものを探り、現代に受け継がれてきた明治神宮で、空間性へのテーマや実現へのコンセプトのヒントとなる話題を、この座談会を通じてお聞かせください。 本日は開催地として多大なご尽力をくださいます明治神宮にて、全国の参加学生に向けてお導きをくださる、水谷管理部長をはじめ、廣瀬宝物管理部長と、明治神宮ミュージアム黒田館長にもご参加いただき、本年、令和2年11月の「鎮座百年祭」を終えた翌年の開催についてお聞きしたいと思います。皆さま本日はどうぞよろしくお願いいたします。 平沼:1912年(明治45年)に明治天皇が崩御され、立憲君主国家としては初めての君主の大葬であったことから記念するための行事が計画され、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民から起こり、造営が進んだと伝えられています。つまり民意の寄付や労力で造営されたのがこの明治神宮ということでしょうか。また、この地が現代にまで続く聖地のような神聖な場所となり現代にも継いで来られた思想の背景と、この原宿・代々木周辺に暮らす人たちの当時の生活文化はどのようなものだったのでしょうか。建設にこの地が選ばれた意図などもお聞かせください。 廣瀬:平沼先生のご指摘の通りこの明治神宮誕生の歴史は、明治45年の明治天皇の崩御に遡ります。夏目漱石の「こゝろ」の有名な一節がございます。「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時、私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」というものです。当時の日本は、日清・日露戦争など、開国以来数々の国難が重なり、明治天皇を心の支えとして乗り切ってきた人々にとって崩御というのはまさに、目の前が真っ暗になることであったと思います。そして、その崩御当日の7月30日には早くも、東京市長の阪谷芳郎が宮内次官に、また日本橋区会議長の柿沼谷蔵が渋沢栄一に東京の陵墓の選定を哀願していますが、天皇のご遺言から陵墓は、伏見桃山となりました。そこで御陵選定の請願運動は天皇を祀る神社の創建運動へと大きく転換いたします。その後、この代々木に鎮座地が決まり、大正4年から造営が始まりました。造営に際して「3大美談」というものがあります。1つ目は、全国からの約10万本の木の奉納があったこと、2つ目は延べ11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕があったということ、3つ目は、一般の国民の会である明治神宮奉賛会の寄付によって造られた外苑が明治神宮に奉献されたということです。民意をきっかけにした多くの民衆の尽力によって造営されたのが明治神宮だといえます。 水谷:鎮座地選定に際し、埼玉の朝日山や宝登山、東京の御嶽山やもちろん富士山もそうですが、様々な地から手が挙がりました。その中から候補地が東京に絞られて行き、明治天皇に最もゆかりの深い場所が選ばれ、この代々木の南豊島御料地に決まりました。今日皆様と会するこの隔雲亭は、明治天皇の皇后である昭憲皇太后のために建てられ、皇后様が度々行啓になられた場所です。この御苑は江戸時代から加藤家や井伊家の下屋敷の庭園でもあり、加藤清正が掘ったと伝わる井戸が現存し、パワースポットとして、注目を集めております。また、明治天皇の思召しにより花菖蒲が植えられ、毎年6 月になると花菖蒲を見に大勢の方がお越しになられます。この建物は、東京大空襲がありました昭和20 年5 月に焼失し、昭和33 年の御本殿復興に合わせて再建されたものです。元々この杜は、御苑以外の正参道や御本殿周辺を始め境内全域、野原でした。そのような場所を全国から延べ11 万人もの青年団の方々が、勤労奉仕で参道をつくり木を植えられました。 水谷:隔雲亭は、明治33年から御苑の中にありましたが、今は鬱蒼と茂っている森も当時は何本かが植わっているような状態でした。ここ代々木の地名の元となったモミの木の二代目が境内にありますが、当時は大変な巨木で東京の下町からでも目印になったそうです。また御社殿につきましては、昨年開催の出雲大社、一昨年開催の伊勢神宮とは異なり、明治神宮は式年遷宮がないのが特徴です。しかし、昭和20 年の4 月の空襲で何千発という焼夷弾が落とされ御社殿は焼失してしまい、現在の御社殿は昭和33 年11 月の復興です。結果として二度、造営されその都度、当代一流の建築技術者の方々が建築様式のみならず資材についても侃侃諤諤の議論をされた非常に珍しい神社だと思います。大正の創建時には、建築様式も出雲大社のような大社造りや、伊勢神宮のような唯一神明造りなどの案も出されました。しかし文明開化を進められた明治天皇ですから、記念館のような建物が良いのではないか、また資材につきましても、木造ではなく石やレンガ、鉄筋コンクリートなどの不燃物でという案が議論されています。実は私の大学の卒業論文が神社建築についてで、築地の本願寺のような日本的ではない建物を設計した当時造営局の参与伊東忠太先生が、なぜ流造を採用したのか非常に興味を持ちこの辺りの研究を致しました。伊東先生は当初、革新的な提案をされて居られましたが、やはり神社という特別な建物で、精神的、神秘的なものを持っていなければならないというお考えに変わられた記録が残されて居ります。最終的には神社として、一般的様式を大成して建築としても進歩の域に達したのは「流造」であるという意見が出され、木造の流造に決定しました。屋根も檜皮か銅板のどちらの材で葺くのかと議論がされ、現在とは異なり檜皮葺となりました。また、昭和33年の復興の際にも同様に建築様式と資材について、角南隆先生を中心として議論がなされ、二度と再び焼失してはならないと鉄筋コンクリート造が主流を占めておりましたが、我々の大先輩、時の権宮司が明治神宮側の意見として、「最も大切なことは神聖感の維持であり、その中に日本の歴史を感じさせ、神霊の鎮まり給う雰囲気を感得させること。また、明治天皇様は非常に進歩的な方であったと共に伝統の維持も尊重され、神社建築に関しては、木造建築こそ望ましいと仰せられたとも承っておるので、御社殿以下玉垣内は木造、それ以外は鉄筋コンクリート造で」と述べられ、最終的にはその様に復興されました。 腰原:歴史の中で、おそらく再建というのも一つの節目なのかもしれませんが、ここの役割が変化するというか、こういう役割を果たさなければいけないというきっかけになる時期はありましたか。 水谷:昭和50年代の元号法制化の国民運動などが起こった頃ではないでしょうか。あの頃は日本古来のものを守り伝えて行こうと発信していかなくてはならないという動きがありました。明治神宮が何かを発信すると、社会的な注目を集めるということもありますから。 腰原:最近、私たち日本人の意識が大きく変わっている感じがして、いまこそ未来を考えなければいけないという風潮にも色々な変換期のようなイメージがあります。昨年ミュージアムも開館され、過去を継ぎながら次のステージを考えましょうという時でもあるんだと思います。そういう意味で、100年というのがきっかけなのか、そういう時代だからなのか分かりませんが、明治神宮もひとつの転換期なのでしょうか。 黒田:私は、伝統というのは、一つのものをずっと守り続けていこうとする考え方ではなく、色々試してみて革新しようとした結果、変えることができなかったものが伝統として残っていると考えています。伊東忠太先生は先進的なものをお考えになられ、伝統的な神社建築に還っていかれたということは、そういう伝統と革新の考え方を、社殿で実践されているのではないかと思います。つまり100年の歴史の中で、やはり伝統的な考え方や、形に収斂していくのでしょう。しかしそこに至るプロセスでは、かなり新しいものを取り入れて、適合しようとしています。そういうことを求めていらっしゃるというのは強く感じます。 腰原:歴史環境を継ぐこういう聖地で学生たちが造ると、歴史を読むよりその形態に引っ張られてしまうんです。ここにはこんな歴史があるからということに引きずられ過ぎて「わかりやすい」形を表現したものになってしまいます。やはり歴史を読み解いてその文脈を継ぎ、現代の技法に合わせた未来を予感する先進的な工夫がなければいけませんね。これから100年を考えると、前の100年と同じことをしても、社会も地球環境も全て変化してきているわけですから、このままではいけない。チャレンジして生き残れるかどうかは別として、やはりどこかで見直してみるという作業をし続けることが大切だと思います。また、そうすることで続くのだと思います。社寺建築系は、やはり悪い意味では伝統に引きずられ過ぎてるところがあります。守らなければいけない意識がある。 腰原:そう、本当はもっと種類があるということを知らなさ過ぎる。明治神宮の場合は、森から生まれる建築というのが出てきてくれるといいなと思うんです。人工林でさえも100年経てば自然の世界です。今は人の力で守られていますが、本当は人工物としてそこから生まれてくる産物があるという世界も、昔の里山的に考えればあるはずです。 黒田:まさに仰るようにほぼ自然の杜に近づいてきていると言われますし、そこから私たちが日常的に得ているものがきっとあると思うんです。それを可視化したものを通して、明治神宮あるいは神宮の杜のことをさらに理解してもらいたいというのが、オープンしたミュージアムの理念の一つです。 腰原:ワークショップも全く同じです。学生にはその辺りのことをもう少し勉強する時間を持ってほしい。皆さんが100年間守り続けた場所へ行き、そこで何かを感じて、そこに何をすべきかということを、提案してもらいたいという思いがあります。突然、どこかの土地にぽーんとつくりましょう!ではなく、周りに守ってきた人も建物も含めた教材が聖地にはあるわけです。それを見て、どう感じて、自分たちがこれからどうあるべきかというのを考えるというのがテーマです。ぜひ、皆さまには、そういうちょっかいを出していただければと思います。 黒田:学芸員生活をおくる中で、特に日本の近世絵画史を勉強してきました。もう30年以上、絵の歴史を専門にしているのですが、学び得たものに日本の美というのは、ディテール、細部にあると思うようになりました。やはり細部がものすごくよくできているものは、全体も非常にすばらしいのです。その全体のすばらしさを見たり、細部のすばらしさを見たりを行ったり来たりするということが、私が考えている日本の美の鑑賞方法と思うようになったのです。それに基づき、細部に美しさが宿っているということを伝える展示室にしたいというプランが固まっていく過程で、では日本人のどういう特性がそういうことをさせたのかということを当然考えなければいけないと思いました。その答えを明治神宮の杜の中で見つけられないかと思ったんです。明治神宮の杜は広いですからどこへ移動するにもかなり歩かなければいけません。例えば社務所に行く時に寄り道して、御苑に入り、遠回りして杜の近くを通る。何度も何度も通るうちに、人工林ではあるけれどやはり自然林に近づいてきているという旨の話が頭の中に浮かんでくるわけですね。そうすると、段々杜が持っている神秘性みたいなものに気づき始めた。それはある意味、スピリチュアリズムにも通じていると思うようになってきたんです。そして水谷部長や廣瀬部長の日頃の所作を見ればわかることですが、たくさんの神職の方が、祭事の時はもちろんですが、それ以外の日常でも本当にきちんとしていらっしゃるのです。お召しになっている装束も、日本古来の、自然から発した伝統色を使った美しいものです。明治神宮の外から来たばかりの私は、この方々はなんて「折り目正しい」人たちなんだろうと思いました。そして、きちんとしているすなわち「折り目正しい」ということは、日本人の美学に通じるのではないかと確信するに至りました。どうして明治神宮の神職の方はこんなにきちんとしてらっしゃるんだろうと考えていくと、杜の中にいらっしゃるということが関係あるのかなと思いました。無縁ではないだろうと。つまり杜に対してやはり日本人が昔から持っている畏敬の念や謙虚さや誠実さ、そういうものを目の当たりにしたような気がしたのです。ですから、その折り目正しさというのは実は杜に真摯に向き合っておられる方に自然と身につくような、それこそ特性だと思います。明治神宮に所蔵されている美術工芸品は、明治天皇がお使いになっていたもの、昭憲皇太后がお使いになっていたものなど、そして明治神宮に奉納されたものばかりです。言い換えると作り手が、名利が欲しくてした仕事ではなく、本当に明治天皇、昭憲皇太后のため明治神宮のためにという気持ちでつくっているわけです。すなわち、完成した品々のどこを見ても、隅々にいたるまでその思いが細部の美しさとなって造形されているのです。その技は、私は「折り目正しさ」という、やはり日本人の美学と言ってもいい姿勢が支え存在すると思うのです。このような日本の美術工芸品に宿る日本の美を、ミュージアムの展示で伝えたいと思うようになったのです。 櫻井:実は本日、初めて明治神宮に参らせていただいたんです。学生の頃に初詣に来ましたら、あまりにも人が多いことに驚き、恥ずかしながら帰りました。京都で生まれたことも要因して、歴史と伝統がたくさん感じられる場所にいると、足が向かなかったというのが正直なところだったのですが、お話を伺い 1 番びっくりして恥ずかしいなあと思ったのが、民意で建てられたというところです。時の権力とか、宗教とかそういうものではなくて、民意で建てられた経緯から、今、館長が仰っていた話しがあるのだなと思いました。また、まさかこの場でディテールという言葉を聞くと思いませんでした。私はエンジニアとして、ディテールを最も大切にして来ましたし、当社が市場から必要とされるようになれた理由の大きな 1 つでもあります。特に日本の材料というのは、その耐久性からも儚い素材です。儚いものや弱いものを、長く使う知恵や工夫から美しさのディテールが生まれてきたと思っています。 黒田:そうですね。隈研吾先生設計のこのミュージアムは、杜に溶け込むように配慮され、軒先がとても薄く作られています。軒先を薄くすると建物の存在感があまり強調されずに、杜に溶け込むのだそうです。とても美しい建物です。しかし若い学生の方たちには、この建物の美しさをじゅうぶんに理解されたうえで、杜と対峙し、もしかすると異物感のあるものを提案してはどうでしょうか。 平沼:御本殿の銅板の葺き替えをされ、ミュージアムもそれに合わせて準備されてきたと思うのですが、あの場所を選ばれた理由をお聞かせください。 廣瀬:もともとバスの駐車場であった場所で、なるべく木を切らないで済むこと、またアクセスの良い原宿から近い場所であることなどが選定の要因でした。 平沼:森あっての神宮。御本殿あっての明治ですね。館長が仰った折り目正しい所作の美しさを、神職の方や、美術館で働いている学芸の方たちもみんなお持ちで、共通するところがあるんですよね。そういうことからコンセプトに結びつけ、隈建築に対峙するのではなくても、森の影響を美しさで引き出していけるといいですね。 櫻井:さっき仰った美って、見える美と見えない美がありますよね。折り目正しいと仰ったのは、見えない部分のディテールですよね。見える美しさ、見えない美しさの両方を工夫してこの場所で表現できたら凄いことだと思います。 平沼:今回の計画候補地は、原宿駅から第一鳥居前付近、南参道から第二鳥居とそして、玉垣まわりの本当に貴重な設置箇所を10カ所、お預かりいたします。その中で鳥居前付近の候補地を4ついただいていますが、鳥居に影響される学生が多くいると思います。 水谷:私が作品を造るなら第二鳥居前ですかね。第二鳥居は、高さ12m、幅が17.1m 柱の太さが直径1.2m 重さ13t です。木造の明神鳥居としては日本一の大きさということですが、鳥居はそれ自体が御神木ではなく、信仰の対象でもない。よく「結界」だと言われます。なお、建築作品での表現については、自由に創造いただいて結構ですよ(笑)。 櫻井:(笑)お優しい。俗世と聖域というのはそこに一歩入るか、入らないかの違いだけですから、日本人が持っている最高の壁は、鳥居なんだということをお聞きしたことがあります。とても面白い表現ですよね。ロープでも構わないけれど、鳥居という結界の位置づけをもつ文化は、素晴らしいことだと思います。 黒田:参加学生の方が建築をつくられる際に使われる素材は自由ですか? 平沼:地域にある自然素材で、リユースかリサイクルでき、なるべくゴミを出さないものを求めています。 腰原:接続する金物などは仕方がありませんが、インターネットで購入するような流通材ではなく、地域の方たちに頼り集めてくるような素材です。空間を構成する構造材を含めた素材選びや、素材の入手からものづくりが始まっているということを学ばせてください。 平沼:(笑)開催が始まりましたら現地説明会の時期にそういうお話をショートレクチャーでお聞かせいただけたら大変ありがたく思います。学生たちはそれを手掛かりに取り組みますので、どうかお願いいたします。 (令和2年2月20日 明治神宮 隔雲亭にて) 聞き手:宮本勇哉 (AAF│建築学生ワークショップ2021運営責任者 ) |
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