9/17 公開プレゼンテーション
- 概要
- 提案作品講評会
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実施制作打合せ
- エスキース
- 現地説明会・調査
- 記念講演会
- アドバイザー会議
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7/15(土) 提案作品講評会 |
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1 泊 2 日にて「提案作品講評会」と「実施制作打合せ」による具体的な施工方法の検討会を開催しました。 |
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1 日目には、各班より提案作品の発表を行い、技術者合宿指導の中心を担われる施工者代表者、そして、日本を代表される多くのプロフェッサー・アーキテクトや、ストラクチャー・エンジニアによる講評会を実施しました。 仁和寺の大林執行長様もご参加くださいました。 | |||
各班長への質疑応答 |
アドバイザーの皆様への説明の様子 |
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講評者の皆様 |
アドバイザーの皆様 |
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7/16(日) 実施制作打合せ |
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2日目には、各班の設計趣旨と、前日の講評結果を受け日本を代表する組織設計事務所、施工会社により技術指導をいただくため、多くの技術者をアドバイザーに迎え、各班の制作準備となる素材決定や加工方法、実制作の準備や発注、試作から完成に向けた具体的な施工方法の検討会を実施しました。前日から講評者の皆様も残ってくださり、ら再度練り直した案をクリティークしていただき、活発に議論を交わすことができました。 |
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1班への制作アドバイス |
2班へのクリティーク |
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3班の制作アドバイス |
4班への制作アドバイス |
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5班への制作アドバイス |
6班のクリティーク |
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7班へのクリティーク |
8班への制作アドバイス |
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9班へのクリティーク |
10班の制作アドバイス |
7/1(土) 各班エスキース 東京会場(東京大学)&大阪会場(平沼孝啓建築研究所) |
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各班の作品のクオリティを高める目的で始まった取り組みとして「各班エスキース」を開催させていただきました。東は東京大学・腰原研究室にて、腰原先生、櫻井社長、長田先生がご参加くださり、西は平沼孝啓建築研究所にて、陶器先生、芦澤先生、片岡先生、平沼先生がご参加くださいました。会場間をskypeで中継し、先生方より、提案作品への貴重なご指導を賜りました。 |
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東京会場の様子① |
大阪会場の様子① |
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東京会場の様子② |
大阪会場の様子② |
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東京会場の様子③ |
大阪会場の様子③ |
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東京会場の様子④ |
大阪会場の様子④ |
6/10(土) 現地説明会・調査 |
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現地にて、各計画候補地の視察と調査を行い、課題テーマに対するコンセプトを発表しました。 |
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集合写真
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仁和寺執行長・大林様によるミニレクチュア |
仁和寺財務部管財課、財務部拝観課課長・金崎様よりご挨拶 |
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金崎様による計画地(境内)ご案内 |
正式参拝 |
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現地説明会の様子 |
各班のコンセプトメイキングの様子 |
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各班のコンセプトメイキングの様子 |
各班で決定したコンセプトの発表 |
【開催記念 説明会・講演会】
ワークショップの参加募集の説明会と、開催を記念して活躍中の建築家にレクチュアしていただきました。
東京会場 東京大学(弥生キャンパス) 農学部 弥生講堂アネックス 東京メトロ南北線「東大前駅」徒歩3分 5月11日(木)18:30-20:00(18:00開場) |
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基調講演 五十嵐太郎(建築史家・建築批評家) |
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●ひとことコメント アートアンドアーキテクトフェスタ/杉田美咲(畿央大学4年) |
京都会場 京都大学(吉田キャンパス) 百周年時計台記念館 国際交流ホールIII 文学部 第3講義室 入場無料|定員: 先着100名|要申込 |
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基調講演 平田晃久(建築家) |
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●ひとことコメント |
4/7(火) アドバイザー会議 |
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全国から応募し選出される参加学生の決定に先立ち、建築や芸術、環境やデザインを学ぶ学生(学部生・院生)らの提案・制作の指導・補助、材料提供・手配、実施におけるアドバイザー(建築技術者)の皆様に実施の交流を促すため2021年度より設けましたこの集まりは、
近い将来、我が国の建築会を担う後進に向けて、実務経験豊富な建築技術者の皆様から指導を頂戴できる、貴重な機会を共有する目的。本開催に継続的な支援をくださる、エンジニアリング企業の旭ビルウォール代表の櫻井様が先頭に立ち、近畿を中心とする建築技術者の皆様と、開催全体のスケジュールと共有し、提案作品講評会(本年:7/15土曜日)と、翌日実施制作打ち合わせ(本年:7/16日曜日)に向けて、本年の開催が始動いたしました。 |
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アドバイザー会議の様子 |
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仁和寺執行長・大林様よりご挨拶 | 仁和寺財務部管財課、財務部拝観課課長・金崎様よりご挨拶 |
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金崎様による、境内(計画地)のご説明 |
金崎様による、境内(計画地)のご案内 |
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金堂での拝観と金崎様よりご説明 | 金崎様による、境内(計画地)のご案内 |
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制作場所(広場)ご案内 |
懇親会の様子 |
座 談 会 | “弘法大師(空海)生誕1250年” |
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――― 全国の大学生が参加するこの建築学生ワークショップは、毎年、場所を移しながら開催してきました。歴史と場所の特性をはっきりと持つ開催地と、周辺の生活文化を合わせて調査することにより、観光として訪れるだけでは知ることができない街や地域との関わり、建築を保全していく造り方の技にも触れ、制作を含めた実学としての地域滞在を叶えます。神聖な場所の静粛な空間からコンテクストを見出し、現場で建築の解き方を探るきっかけを経験していきます。 本日は開催地として多大なご尽力をくださいます仁和寺にて、全国の参加学生にむけて導きをくださる、瀬川門跡様をはじめ、吉田執行長にもご参加をいただき、この建築ワークショップを初年度から見守り続けてくださる、東京大学の腰原先生、佐藤先生、そして毎年、私たちと併走したサポートをくださいます、旭ビルウォールの櫻井社長と、オーガナイザーの役割を担い続けてくださいます、建築家の平沼先生にお話しをお聞きしながら、弘法大師(空海)生誕1250年に合わせた仁和寺開催についてお伺いしたいと思います。皆さま本日はどうぞよろしくお願いいたします。 平沼:仁和寺の伽藍や歴史の特徴的なお話をお聞かせいただけますか。 瀬川:境内の南東には現在御室会館という宿泊施設がありますが、平安時代には八角円堂という、名前の通り、八角形の形をしたお堂が建立されていたのです。このお堂は仁和寺の第一世である宇多法皇がご自身の祈りの場、念誦堂として仁和寺とは別に建立したものです。宇多天皇は父帝である光孝天皇の供養をするために仁和寺をお建てになりましたが、その後天皇は醍醐天皇に譲位されて、ご自分は出家されたのです。今で言うと政治も全てされていた方が、出家をした訳です。そして東寺の益信という、弘法大師(空海)のお弟子さんから灌頂を受けます。灌頂とは僧侶となる儀式ですが、その灌頂を授かり、仁和寺の第一世となられるのです。天皇が出家をされ、住職となられた寺院、というのが仁和寺の一番の特徴です。これが後に筆頭門跡寺院と呼ばれる所以ともなるのです。 腰原:建物がどうやって長く用いられ続けてきたかいうことに着目することも一つのテーマなのですが、仁和寺では御所の建物が移築されていますね。なぜ御所から移築されてきたのか、また移築されてきた後どのように維持されてきたのでしょうか。 佐藤:当時は、京都のどこにお寺や神社があって、どういう意図で西山につくりたいと光孝天皇が仰ったのでしょうか?例えば立地的に御所に対して西の方にはあまりなかったとか。また維持していくために傷みやすい箇所や、木造の建物のどこが腐りやすいとか、何か対策をされていたり、専門の職人さんがおられたりということはありますか? 吉田:そうですね。西の方にはほとんど建物もなかったんだろうと思うんですね。昔は小松野と言われて、松がたくさんあった場所に建てられたと言われています。西山の方からは京都市内が一望できますので、見渡せる場所として選ばれたのではないかと思いますね。 瀬川:境内は北に金堂、南に二王門を構えており、北から南にかけて緩やかな傾斜地である地形を利用して盛り土ではなくて、地盤を削って境内を造成した形跡が見られます。また、堅牢な地盤であることから、今日まで、地震にも耐え、安定的に建物が存在していることを鑑みれば、堅牢な地盤であることが推定されます。この度、370年ぶりの観音堂修理では、地盤面の確認も行いましたが、良い地盤に建立していることが報告されております。その当時知っていたのかどうか・・・。 佐藤:地盤が良いところを昔はどうやって感じられたのでしょうね。 佐藤:水は湧いて出るけれどもはけやすいという状況と、おそらく通気性にかなり配慮した建物のつくり方をされて何百年も維持できるようにされているんだと思います。 瀬川:私共の用語で井戸のことを閼伽井戸と申しまして、仏事などで用いる折に汲む水なんです。境内は傾斜地の地面を削って盛り土をして造成しているんです。現在の御殿庭園の建物床下を見ると、庭園構成の関係から池や水路が設置されている辺りは比較的湿度が高いところもございます。床下なども高くはなっておりますが、部分的に腐食が進んでいるところも見て取れます。 瀬川:高低差は、国宝金堂と二王門では10mくらいあります。水は高いところから低いところに流れますので、境内の南に面する建物で庭園の構成要素に含まれる建物が湿気などの影響を受けやすく、傷みは顕著です。 腰原:修理には決まった大工さんがいらっしゃるんですか? 瀬川:江戸時代の仁和寺復興に携わった時の大工さんは、江戸幕府の大学頭であった中井家です。平成の観音堂大修理では、京都府文化財保護課が抱える宮大工にお願いしています。観音堂を370年ぶりに修理計画で重視された一つに、地盤の歪みを補正する課題がありましたので、東京駅の再開発と同じ工法である【あげまい】という構法よって地盤調整を行うことになりました。 櫻井:私は実は京都の北区で生まれ、10歳くらいまで京都で育ちました。50年ぶりに見るものというのは全て新鮮です。世界遺産に登録されていると外国の方がたくさんいらっしゃいますが、防犯、防災、災害でお困りのことはありませんか。 瀬川:仁和寺も近年では 平成5年(1993年)に御影堂や金堂など三棟が放火にあいました。その時にはやはり防災と火災報知器が作動し小火で済みましたが、やはりきちんとしておかないといけないと感じました。実は今ちょうど防災設備の工事をやっているところなんです。 境内には消火設備や自動火災報知設備があるのですが、令和2年度(2020年)より二か年計画で再整備を行っております。金堂、御影堂、霊明殿の三か所が同時に発火した際、自動火災報知器がついていたので初期の段階で火災を感知し、躯体に広がる前に消火することが叶ったため、部分取り替えで済みました。過去にはテロの対象となっている寺院ですので、消火設備や訓練の充実を図ると共に、消防行政からご指導いただいている寺院でもあります。 佐藤:昔は火災や自然災害に対してどういう対応をしていたのでしょうか? 瀬川:昔は火事が起こると建物を壊していくと伺っております。火事に関する記述は資料としては確認されておりませんが、台風など風が強い時は開けた方が良いという言い伝えもあります。 平沼:なるほど。応仁の乱の全焼から再建されて、二王門や五重塔を建立された後の落雷による焼失、または逆に建造物の数が江戸時代から増えたものなどはあるのですか? 瀬川:落雷は最近も多いですね。 吉田:お堂は変わっていませんけど、霊宝館や会館とか新しい建物は増えてきています。 佐藤:私は京都の洛西高校出身なんですけれど、京都だと煤けた柱をふく職人さんがおられますね。先ほどもお庭で苔か何かを摘み取っていた様子を見たんですが、それが特徴的だと思ったんです。材料を考えたり、形を考えたり、そういう職人さんがおられるならこんな表面の仕上げができるのではないかなど、ごく些細なことでも何かあると学生たちがつくるものを考える時の良いきっかけになると思うのですが。 瀬川:我々の感覚は新しいものにすればいいという、柱でも部分的に傷んでいるから、もし半分腐食していても新しいものにという感覚であったので、やはり古いものを活かしていくことはすごいことですね。腐食しているところを埋めて活かしていくという、補助的に新しい木を使っていくという発想が正しいということが一番勉強になりました。腐蝕させ、色をうまく仕上げて分からないようにしていくという技術など、古いものと新しいものとの調和と言うんでしょうか。 腰原:古い柱に新しい材を補修する時に古い色に塗るか、新しく足したから時代を刻むために塗らない方が良いのではないかということで最近議論が分かれるんです。文化論的な価値観で、せっかく本当に時間を積み上げてきた木と後から最近つけたものをわざわざそれに合うように色を塗るのは良いのかという議論です。過去から引き継いでいるものと新しく加えたものについてはどういう感覚をお持ちなんでしょうか? 吉田:私は古色仕上げをした方が目立たなくて仕上がりが良いのでそちらの方が好きです。でも観音堂はそのままでしたよね。 金崎:この度の観音堂修理では、古色仕上げになっております。 腰原:外側は1年くらい我慢すると大体馴染んでくるのですが、内部だと目立ちます。そういうのを継ぎはぎと思うか、文化と思うか、技術と思うかというところなんですよね。 金崎:観音堂修理の折には、工事期間中に駐在所を設けて常駐いただきました。 佐藤:植物の手入れはどうしているんですか? 金崎:庭師さんに年間を通じて見ていただいています。 腰原:御室桜などもありますし、生け花の御室流もあるわけですけど、植物と建築と宗教というのは何か特別な捉え方があるんでしょうか? 瀬川:御室流華道の理念は、宇多法皇のお気持ちを表現するための一つの手段であり、布教でもあり、お花を通じて仁和寺に伝わる教えを感じていただくことです。そして、西山の麓に自然を生かす形で、宇多天皇は仁和寺諸堂を建立し、また、境内の一角である八角円堂に於いては、天皇家と人々の幸せを祈る場所として建立したと解釈しております。 腰原:自然の樹木と建物の関係を捉えた時に、ここからの景色を大事にしているようなところはあるんでしょうか? 佐藤:仁和寺には創建当時から継承されている歴史や文化などはあるのですか? 瀬川:過去に遡ると、仁和寺の境内は2キロ四方に境内地を所有し、鎌倉前期には70の寺院が点在していた建立されていたと記録されております。平城京から平安京、現在で言うところの奈良から京都へ都が移り、大陸的な文化からわが国の文化、国風文化が、宗教においても新しい波、新しい仏様のお姿を生み出しました。仁和寺の創建当時の本尊である阿弥陀如来は、国風文化を示す仏様として大変すばらしいといわれているのです。仁和寺は広大な敷地と寺院を有し、日本の文化の基礎を築いた場所だと捉えております。天皇様が出家し、入寺した関係から、皇族の方が歴代住職を務め、多くの文化人や芸術家が集まったことから、ここがサロン化し仁和寺を中心とする文化芸術が花開いた場所でもあると考えています。例えば、仁清といった御室焼や、狩野派の絵師なども仁和寺を訪れております。 吉田:宇多天皇様が10年間天皇を勤められた時に後押ししたのが菅原道真なんです。その時に遣唐使の派遣を中止しました。当時は中国が乱れていたので行っても十分な成果がないと、国風文化を高められた。そこで建物も純和風の建物をつくっていったと言われています。だから仁和寺が再建された時も、昔の国風文化の建物の形で、一層から五層の屋根の幅がほとんど変わらない大変美しい五重塔を再建されています。二王門は京都の三大門(南禅寺・仁和寺・知恩院)の一つで、知恩院さんと南禅寺さんは禅宗様式で二層に仏様を祀り、両方から階段で上がれるようになっていますが、仁和寺の二王門は一層に金剛力士像がいて二階に上がれませんが、本当に美しい。全ての建物が国風文化の純和風の建物になっているのが特徴ですね。 瀬川:建築もシンプルで、国宝金堂の屋根形状は調和がとれていると感じており、究極の美、線の美しさを追求されたものと考えております。仁和寺の雰囲気が全部含まれるような感覚にさいなまれます。 平沼:天皇陛下が出家をされて、筆頭門跡寺院、いわゆる仁和寺御所としての存在があるゆえに、地域の一般の生活者との関わりがあまりなかったのかなと見受けられるんですが、住まわれている周辺の方達との関わりはこれまで多くあったんですか? 金崎:仁和寺が再興されてからですが、皆さんに来ていただこうと桜を植えたり、四国の八十八ヶ所霊場を模したお堂を建立しているようです。 吉田:今から196年前、第二十九世であった済仁法親王さんが寺侍の久富家さんに四国へ行って砂を集めさせて、仁和寺の裏山、成就山に88の御堂を建て、そこにお砂を納め御室八十八ヶ所というのをつくらせたんですね。昔は御四国に行くというのは命懸けで、白装束を着てお参りをされていたんです。そこで京都の人にも身近にお参りをしていただきたいと、裏山に写しの八十八ヶ所霊場をつくられた。今は台風でだいぶん荒れたため、6年計画で整備事業をしています。最近は皆さんに親しんでいただこうとライトアップをして公開し、地域の自治会単位で来ていただいたりして少し近くなったね、と(笑)。 吉田:ここは小松野と言われた松がたくさんあった場所ですので、まず松がありますし、今は桜を植えましたから桜が関わってくるのではないのかなと思います。先ほど言いました御室八十八ヵ所の山に、台風で倒れた木がまだたくさん残っていて持ち出せていないんです。 佐藤:使わせていただけるなら学生たちに取りに行かせます。 一同:笑 平沼:仁和寺としてはどんな提案を求められますか? 吉田:先ほど御門跡様も言われていましたが、第一世宇多法皇のお寺への思いが祈りであること。また、御所の紫宸殿を移築し、仁和寺の金堂となった。御所といえるべき建物をテーマにできると思います。 佐藤:場所ごとのそこに込められた思いみたいなものを学生たちが伺った時にお話いただけると、学生たちの発想を膨らませる良いきっかけになると思います。 櫻井:京都は、多くの無形、有形文化財を有しており、日本文化の中心ともいえます。京都開催に於いて、世界遺産に登録されている仁和寺で最初に開催できるのは光栄な事である思っております。仁和寺で開催する意味を、宗教的、歴史的な側面からとらえ、本ワークショップのテーマ設定が叶えば幸いかと考えます。 佐藤:成就山御室八十八ケ所霊場を巡るのはかなり時間がかかりますか? 瀬川:歩いて2時間弱くらいです。 平沼:学生たちが最初のフィールドワークをさせだく時に是非そういう機会をいただければと思っています。 (令和3年4月16日 仁和寺 高松宮記念書院にて) 聞き手:宮本勇哉 (AAF│建築学生ワークショップ2023運営責任者) |
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